髙松信英先生をしのんで
2022/06/17
本校2代目の校長先生であり、高松学園の前理事長である髙松信英先生が、今年の2月末にお亡くなりになりました。来週6月25日(土)に、信英先生のお葬式が執り行われます。
信英先生をしのんで、本日、全日制で読まれた朝の法話の一部を載せたいと思います。信英先生の写真は、本校50周年記念誌掲載のものです。
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風が吹けば、風にさからわずにゆれる。しかし、風がおさまれば、ふたたびまっすぐにたちもどる。
麦はすなおだ。自然の教えるところ、大地の教えるところにしたがって、青くまっすぐにのびていく。
決してそれでいて弱いわけではない。踏まれても、吹かれても、たたかれても、だまってもとへもどる強さを持っている。
麦は、まわりのものを、うらやましがったり、にくんだり、悩んだりはしない。また「自分の力でのびるんだ」というような思い上がった心もない。
太陽や、雨や、大地のめぐみをすなおに受け入れて、麦はまっすぐのびていくのである。
あなたは、まわりの人たちにこだわり、「わたしが、わたしこそは、わたしだけが」という、せまい視野の中にいるのではないでしょうか。
あの青々とした美しい麦のように、たった一回しかないあなたの人生を、あなたを生かしている自然のちからに、すなおにしたがって、まっすぐ生きていくことが、もっとも美しい、人間らしい生き方ではないでしょうか。あの青い麦のように。
『青い麦のように』より抜粋
これは、仏教で学ぶ『青い麦のように』にある、信英先生の言葉です。
仏教を学ぶことに対して信英先生は、知識を身につけ教養を高めたり、自分を飾ったりするためのアクセサリーではない。念仏の教えを聞く人生は、どんなに苦しくても、自分のありのままの姿を誤魔化さずに見つめていく私がいるのだと、言われています。
そして、本校の生徒が、悩みを開いて「たのしみ」とし、悲しみが「喜び」となるように、少しでも役に立ってほしいと、念仏の教えに出遇うことの喜びを『青い麦のように』に書きつづったそうです。
信英先生が出遇われた念仏の教えを聞き、その教えによって見えてきた自分を問い、その見えてきた自分を開いていける私になっていくことが、信英先生との本当の「出遇い」になるのではないでしょうか。
飯田女子高校で生きる私たちに、信英先生は「だめな人は一人もいない」と、今この瞬間もはたらきかけてくれているように感じます。
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髙松信英先生著『青い麦のように』