尊い「いのちの世界」に生きている
2021/05/13
5月12日(水)に令和3年度の釈尊降誕会(しゃくそんごうたんえ)が行われました。
昨年度は休校だったため実施できませんでしたが、今年は、感染症対策をとったうえで、お勤めしました。
まず、全員で合掌をしたあと、宗教科の宗英俊先生にお話をしていただきました。

お話の後は、お釈迦様の誕生のお姿を安置した花園での誕生の様子を観て、各クラスごとホームルームで、「かけがえのないいのちの尊さ」について考えました。

昨年度は休校だったため実施できませんでしたが、今年は、感染症対策をとったうえで、お勤めしました。
まず、全員で合掌をしたあと、宗教科の宗英俊先生にお話をしていただきました。
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【お話の内容より】
誰もが「いのち」をいただいて平等に生まれてくる。ひとは生まれながらに、「尊いいのち」をいただいている。そうして、私を生かそう、育てようという、まわりの働きかけがあって今日がある。私の「いのち」が尊いのとまったく同等に、まわりの人の「いのち」も尊い。
だけど、成長するにしたがって、自分の想いにとらわれてしまう私は、都合のよいこと、都合の悪いことに仕分けして、「平等ないのち」をいただいて生きていることに目を向けなくなってしまう。私が生きるには、多くの「いのち」を犠牲にし、多くの人々に迷惑をかけないと生きてゆけない。どんな「いのち」も、決して「おもさ」を比べたりすることのできない「尊いいのち」をいただいて生きているという「本当のこと」に目を向けると、まわりの人々に歓迎されて喜ばれて生まれてきたことを確認できる。
「私のいのち」・「まわりのいのち」・『お互いに育てあう尊い「いのちの世界」に生きていること』を感じよう。この世の中に無駄なものはない。お互いを育てあう「いのちのはたらくかけ」を届ける存在なのだから。
だけど、成長するにしたがって、自分の想いにとらわれてしまう私は、都合のよいこと、都合の悪いことに仕分けして、「平等ないのち」をいただいて生きていることに目を向けなくなってしまう。私が生きるには、多くの「いのち」を犠牲にし、多くの人々に迷惑をかけないと生きてゆけない。どんな「いのち」も、決して「おもさ」を比べたりすることのできない「尊いいのち」をいただいて生きているという「本当のこと」に目を向けると、まわりの人々に歓迎されて喜ばれて生まれてきたことを確認できる。
「私のいのち」・「まわりのいのち」・『お互いに育てあう尊い「いのちの世界」に生きていること』を感じよう。この世の中に無駄なものはない。お互いを育てあう「いのちのはたらくかけ」を届ける存在なのだから。
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お話の後は、お釈迦様の誕生のお姿を安置した花園での誕生の様子を観て、各クラスごとホームルームで、「かけがえのないいのちの尊さ」について考えました。
